2010年04月20日

絵を描き始めたころ―その3.

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「ワコール銀座アートスペース」は、中沢ギャラリーより広いので、60号1枚、50号2枚を中心に構成することにした。

当時棲んでいた横浜のマンションの一室では、とても制作はできない。かといって広いリビングを占領してしまうのは、疲れて勤めから帰ってくる相方に申し訳ない。

もう、絵のことしか頭になかった私は、家を飛び出し、稲村ヶ崎にアトリエを借り、そこに篭って制作を続けた。

そんな私に、結婚生活が続けられるわけがない。いろいろと話し合って、お互い、別の将来を築くことにした。


ワコールの会期が始まって二日目、一人の青年がやってきて、ぐるぐると速足で見てまわり、いきなり、

「あー。いいですね、あ。これ下さい」

と一枚の絵を指さした。その、大根でも買うような気軽さにあっけにとられていると、

「あ、すみません、申しおくれました。【今月のこれがよかった】に載せたいんで、ポジ貸してもらえますか。あと来月号で【マッドコレクター特集】をするので、出品しませんか」

と、早口でいいながら名刺を差し出した。見れば「月刊美術 塚原立志」とある。

「ご存じないでしょう、まあ、美術業界誌ですわ、うふふひひ」

と口を∞の字にして、不思議な笑い方をする。これが月刊美術の奇、いえ珍、いえ怪、いえ名編集者の塚原さんとの出会いである。現在は「豊寿苑」という、実家の経営する老人保険施設のマネージャーをされている。

当時は、編集者にしてコレクター、さらにラテン音楽のライターという独特のスタンスで、ぐいぐい世を渡って行くお方だった。

今も豊寿苑には、村上隆の150号くらいの初期の作品が掛かっているはずだ。現在、ご自宅を新築中で、私の60号の3部作【橋姫】を飾るスペースを確保したという。

塚原さんのご尽力により、「めざせ!マッドコレクター」に作品【火の書】【水の書】が掲載され、独立したばかりの森田画廊さんが購入して下さった。

そして、60号の作品【甘露】を、村田慶之輔氏が安井賞に推して下さった。これは、見事に選外となったのだが、何かが急にバタバタと動き出してきたのを感じた。




3回めの個展は「みゆき画廊」。当時、新人画家の登竜門と言われた、企画画廊である。オーナーである、ベリーさんこと加賀谷澄江さんにワコールの個展を見ていただき、快諾を得て開催の運びとなった。

「みゆき画廊」では会期の1週間のあいだに500人もの人が会場に訪れた。

そしてこの頃から、私にはまるで知らなかった世界が、私のまわりで動き出していた。まだ楽しんで絵を描いていたいだけの私には、とても重い「業界」というものがのしかかってきた。


写真は「みゆき画廊」での個展のDM。

1992年【愚の秤】変20


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posted by 瓜南直子 at 18:04| Comment(0) | 絵とその周辺に棲むもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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