2010年10月22日

「ぼっこ」を描いた頃2.

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腸の途中から逆流した暗緑色の液が、天井近くまで吹き上がった。

口に含むだけ、と何度念を押しても飲み込んでしまう。何度もやられているうちに、数分後に降ってくる暗緑色の雨からの被害を少なくするように工夫する。

まず掛け布団を避難させる。パジャマの上に新聞紙、首回りにタオル、髪にもタオルをかけておく。雨の量はその時によって違うが、少ない場合は、これで顔を拭くだけですむ。

多い時はパジャマ、シーツ、枕、すべて交換する。私の髪や服にも飛び散っているが、それは後回しだ。何より、病室に持ち込んで描いている挿絵に飛び散らないように気をつけなければ。

そう、「ぼっこ」の挿絵の半分くらいは病室で描いたのだ。


当時つき合っていた詩人の彼が膵臓癌の手術をして半年後、肺に水がたまっているのに雪かきをして、脳梗塞で倒れ、救急車で横浜の国立病院に運ばれた。肺癌で父が亡くなって一月後のことだった。

麻酔もなしに肺に穴を開けて中の水を抜かれ、オムツをあてられた。左半身は麻痺していた。

しかし彼は病院の先生や看護婦さんといっさい口を聞かない。横をむいて返事もしない。ナースコールも絶対しない。ひねくれまくってしまっていた。当然、主治医は私と話をするわけだけれど、家族でもない私には何の権限もない。

「ご家族と連絡を取らないと困ったことになります。おわかりですか」

わかります。でも本人が連絡したくないと言ってます。私には連絡先はわかりません。

という不毛の会話が繰り返され、書類は私の署名(友人)でなんとかおさめてもらった。

しかし、本人は誰とも会話をしない。オムツもいやがるのだから仕方ない。24時間体制でつき合うしかない。やりかけの仕事と道具、Zライトまで持ち込んで病室に泊まることにした。



もう腸が機能しなくなっていたのだろう。2週間後、腸閉塞をおこした。処置室に行き、患部まで管を入れて病室に戻ってきて、主治医の説明を聞いた。でも看護婦さんが出て行ったとたん、右手で管を抜いてしまったのだ。

俺以外のすべての人間が死ねばいい!

倒れて以来、初めて出た文章らしき言葉がこれだった。それまではほとんど単語しか出て来なかったのだ。でも、その言葉のあまりの不明瞭さに自分で気づき、大声で泣きはじめた。

泣き声はナースステーションにまで響き渡り、おかげでかけつけた看護婦さんに事件を知ってもらうこととなった。患部に部品が残したまま無理に引っ張り出してしまったので、果たして二度めはクリップをつけた管を入れて、患部で残っている部品と接合させる、というとんでもない処置になった。

最処置のあまりの苦痛に懲りたのか、おとなしくはなったけど、今度は私を困らせ始めた。腸閉塞だから、絶飲絶食である。私はどこかで適当に食事をする。健康なヤツは残酷だ、隠れて自分だけ何か食ってるんだろう、自分も何かを口にふくみたい、としきりに訴える。含むだけよ、と口の下に洗面器を受けて、ペットボトルを渡す。

最初は事故だったのかも知れない。しかし、二度めからは確実に故意だった。暗緑色のしぶきを浴びて、慣れぬ手つきでバジャマやシーツを替え、壁を拭き、床やその他もろもろの掃除をした。たくさん飲んだのか、一晩に何度も吹き上げたこともあった。ありがたいこと病室はリネン室の向かいにあった。こっそりシーツやタオルをいただきに行った。もちろん病院には内緒である。看護婦さんの仕事を見ているうちにシーツ交換も上手くなった。

何度も何度もやられるうちに、こちらも慣れてきた。そして開き直ってある日、彼に言った。

いいよ。どうせ吐くんだから、いっぱい飲んじゃえば。

そう言ったとたん、観念したのか飲まずに口からトマトジュースを全部こぼした。結局、同じく全とっかえではあるんだけど。


「ぼっこ」の中に、病室のシーンがある。これをどこかほのぼのとしたシーンに描きたかった。でも、見た方がどんな印象を持つかは私にはわからない。

最後にお父さんと庭の桜を見上げるシーンで終わるのだが、彼も桜が満開の頃、4つめに移った郷里の一宮の病院で息を引き取った。

お葬式の写真を取りに、私が鎌倉に戻った時だった。


13年前のことだが、「ぼっこ」の病室と桜のシーンは、今見ても胸がつまる。

でも「ぼっこ」は大好きな本。15版くらいになっているみたいだけど、再版されるたびに誰かにあげてしまうので、今はうちには一冊もない。


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「ぼっこ」を描いた頃1.

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インテリアや雑貨のスタイリストをしていた頃、婦人画報社「モダン・リビング」の仕事はかなりのボリュームがあった。編集部の空気は和気あいあいとしていて、仕事の上がりにはいつもどこかで飲んでいた。絵を描くようになってからも、しばらくはスタイリストをしていたので、個展にはみなさんよく来て下さった。モダンリビングから福音館に移って、児童書の編集をするようになった一戸盟子さんも個展に来て下さった。

一戸さんは「おおきなポケット」という、小学校低学年向きの雑誌の編集をしていらしたのだが、ある日、私に挿絵を描きませんかと打診してきた。

えっ。自分の絵だって何ひとつ確立出来てないのに、それ無理かも。無理かも、と尻込みする私に、絵本をどっさり送って

「描けるわよ。描けるわよ」と言うのだ。

ところが、私は実は絵がヘタなのだ。サラサラとイラストを描くようなタイプではなく、脂汗を流してぜいぜい言いながら、なんとか一枚描き上げるのがやっと、という程度なんである。

おまけに児童書は細部のチェックがきびしい。連載の時は、何度もダメ出しがあり、2度の色校正のあと、とんでもない間違いに気がついたり、と今までと全くちがう神経を使い果たして疲労困憊した。

かくして連載ののち、描き直しもして、たかどのほうこ著「ねこが見た話」が刊行された。

連載の頃の描けなくって辛かった思いだけが残り、その後あまり手にしなかったのだが、ツィッターで田川ミメイさんが取り上げて下さったので、あらためて見てみると、これがなかなかいいのだ。細かいところまで楽しんで描きこんでいる。あんな状況でおもしろがっていたとは、我ながらなかなかタフな奴、と自分をナデナデしてしまった。

おかげでなかなかのロングセラーになっているらしい。

「ねこが見た話」が出てしばらくしたころ、偕成社の別府章子さんから連絡があった。

富安陽子さんの書き下ろしの読み物「ぼっこ」の挿絵の依頼だった。ゲラを送ってもらい、一気に読んで惚れてしまった。

東京から大阪府下の山の中にある稲生という町に引っ越ししてきた少年が、ふるい屋敷で「ぼっこ」(座敷童子)に会い、慣れない環境や不思議な出来事に立ち向かい、少年時代を乗り越えてゆくという話。

胸の底で涙がにじみ、あふれずにしみわたってゆくような読みものだ。富安さんの物語を描く力に強く押され、挿絵を描きはじめた。登場人物はみな、魅力いっばいだ。


ところが、この挿絵を描きはじめた私は、実生活でとんでもない状況におちいっていた。(続







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2010年04月21日

絵を描き始めたころ―その4.

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みゆき画廊の個展のあと、いくつかの画廊やデパートから声をかけていただいた。

でも、絵を描き始めて3年ほどしか経っていない私が、とても周囲の期待にこたえられるわけがない。

中には、私の意思を抜きにして進められてしまった企画もあり、ちょっと待ってー!とあわてて差し止めたりもした。

すっかり混乱し、おびえ、おじけづいた私は、耳をふさぎ、膝を抱えて座りこんでしまった。そしてしばらくは、グループ展以外に出品しなくなってしまっていた。



「あかんで。カナンちゃん。みんな離れてしまうで。スタイリストなんかやめなさい。絵一本にしたらどうや」

そう言ってくれたのは、京都の伴清一郎画伯である。月刊美術の塚原さんに、伴さんの作品を初めて見せてもらったときは、正直おどろいた。描かれているものは全く違うのだが、絵のテーマの背骨のようなものが、めちゃめちゃ自分と近いのである。

伴さんの三越の個展を見に行き、以来深夜に長距離電話であれこれしゃべる友達となっていた。

「川上画廊で二人展せえへんか」

そう声をかけていただき、ようやく私は重い腰を上げた。

プレス用の紹介文を書き、パンフレットのデザインも自分でした。寄稿文は、地元で以前からつきあいのあった詩人の城戸朱理氏にお願いした。

展示も、横一列に並べるのではなく、壁面全体を構成した。今も個展で、好んでこの方法をとっているが、思えば二人展がその始まりだったのだ。

しかし、それまでの眠ったような活動からすると、驚くくらい積極的である。ぼんやりとではあるが、絵で生きて行こうとようやく覚悟を決めたのであろう。

二人展のタイトルは【游神記】。みゆきの後、もう一度ワコールでの個展のタイトルに【兎神記】とつけていたように、この頃から、自分の世界に地図を描きつつあったのだ。



絵を始めて、一番むずかしかったのは、描きたいテーマと、好みの質感があまりに乖離していることだった。工藝科、しかも鍛金(板金屋、鍛冶屋、旋盤工)専攻、というガチンコの立体出身なので、絵画のマチエールと錆び、腐食、荒らし、という金工のマチェールと直結してしまう。

描いてるものは、今も初期型の頃とそう変わらない。ただ、テーマと物質感をどう融合させるか、どう洗練させてゆくかを、この20年やってきたような気がする。



あのまま、見切りをつけず、好きと言うだけで書くことにこだわっていたら、自意識をもてあまし神経はハリネズミのようにとがったまま、知ったかぶりの文芸臭を漂わせるおばさんが出来上がっていたと思う。

今は、自分の絵を通して、この世界(森羅万象や歴史)とわかりあい、その喜びを人と共有することができれば、と思っている。


(了)

写真は二人展【游神記】パンフレット

1996年 左・伴清一郎【童神】変8 右・瓜南直子【月盗り姫】変10


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2010年04月20日

絵を描き始めたころ―その3.

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「ワコール銀座アートスペース」は、中沢ギャラリーより広いので、60号1枚、50号2枚を中心に構成することにした。

当時棲んでいた横浜のマンションの一室では、とても制作はできない。かといって広いリビングを占領してしまうのは、疲れて勤めから帰ってくる相方に申し訳ない。

もう、絵のことしか頭になかった私は、家を飛び出し、稲村ヶ崎にアトリエを借り、そこに篭って制作を続けた。

そんな私に、結婚生活が続けられるわけがない。いろいろと話し合って、お互い、別の将来を築くことにした。


ワコールの会期が始まって二日目、一人の青年がやってきて、ぐるぐると速足で見てまわり、いきなり、

「あー。いいですね、あ。これ下さい」

と一枚の絵を指さした。その、大根でも買うような気軽さにあっけにとられていると、

「あ、すみません、申しおくれました。【今月のこれがよかった】に載せたいんで、ポジ貸してもらえますか。あと来月号で【マッドコレクター特集】をするので、出品しませんか」

と、早口でいいながら名刺を差し出した。見れば「月刊美術 塚原立志」とある。

「ご存じないでしょう、まあ、美術業界誌ですわ、うふふひひ」

と口を∞の字にして、不思議な笑い方をする。これが月刊美術の奇、いえ珍、いえ怪、いえ名編集者の塚原さんとの出会いである。現在は「豊寿苑」という、実家の経営する老人保険施設のマネージャーをされている。

当時は、編集者にしてコレクター、さらにラテン音楽のライターという独特のスタンスで、ぐいぐい世を渡って行くお方だった。

今も豊寿苑には、村上隆の150号くらいの初期の作品が掛かっているはずだ。現在、ご自宅を新築中で、私の60号の3部作【橋姫】を飾るスペースを確保したという。

塚原さんのご尽力により、「めざせ!マッドコレクター」に作品【火の書】【水の書】が掲載され、独立したばかりの森田画廊さんが購入して下さった。

そして、60号の作品【甘露】を、村田慶之輔氏が安井賞に推して下さった。これは、見事に選外となったのだが、何かが急にバタバタと動き出してきたのを感じた。




3回めの個展は「みゆき画廊」。当時、新人画家の登竜門と言われた、企画画廊である。オーナーである、ベリーさんこと加賀谷澄江さんにワコールの個展を見ていただき、快諾を得て開催の運びとなった。

「みゆき画廊」では会期の1週間のあいだに500人もの人が会場に訪れた。

そしてこの頃から、私にはまるで知らなかった世界が、私のまわりで動き出していた。まだ楽しんで絵を描いていたいだけの私には、とても重い「業界」というものがのしかかってきた。


写真は「みゆき画廊」での個展のDM。

1992年【愚の秤】変20


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posted by 瓜南直子 at 18:04| Comment(0) | 絵とその周辺に棲むもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

絵を描き始めたころ―その2.

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絵を描くと言ったって、何画を描くのか、さっぱりわからない。油絵はなんとなく敬遠して、鉛筆や水彩絵具、ペンなどでイメージに形を与えてはみたものの、どうにも薄ぺったい。物質感が欲しかった。

油絵は感覚的にあわないけど、キャンバスの麻にひかれた。日本画の岩絵具の鉱物感にもひかれた。

しかし、当時の私は絵画の技術を何一つ知らないのだった。

知らないなら調べればよい、聞けばよい。で、技法書を買ってみた。‥‥わからない。技法書は、少なくとも基本的なことを理解してる人が読む本のようだった。入門書、なんてのも買った。‥‥やっぱりわからない。生の声を聞きたい。

そして、怒涛の取材攻勢がはじまった。

油絵科の友達に、電話をしてキャンバスの張り方を聞いた。日本画の友達を見つけては呑み屋に引きずりこみ、ビールをおごって岩絵具や膠の使い方を聞いた。一升瓶ぶら下げて仕事場へ押しかけては、制作中の絵や画材を見せろとせがんだ。

スタイリストやライターの仕事をこなしながらも、頭の中は絵のことしかない。あれこれ試して半年くらいした頃だろうか、ようやく30号の絵が一枚できた。

この一枚を描きあげたことで、自分が描いてゆく世界が言葉から離れ形として歩き始め、それに合う素材と技法が見つかったと思った。

そして何という怖いもの知らず。

その日に、貸し画廊の予約を入れたのだ。しかも一年後の会期を。年も年だったし、人目にさらして自分を追い込む必要があったのだ。

向こう5年は、年1回のペースで個展をすると決めて、まず第1回め。

銀座「中沢ギャラリー」にて、極度の緊張と不安と高揚から幾度も自家中毒になりながら、20点の絵をならべた。

私はそれまでずっと学校でも酒場でも、アホな子でいたから、個展をしたこと自体を人は驚いたらしい。

しかも、なんかややこしそうな絵で。

「君がこういう絵を描くとはねえ」

見に来て下さった方々の感想は、おおむねこんな感じだった。

ひりひりと心が灼けるような初個展だったが、通りがかりで絵を持って下さった方も何人かいて、8点の絵がお嫁入りした。そして次回の個展を翌年「ワコール銀座アートスペース」で、と決めた。


絵にたどり着きはしたが、そこからも絵から始まることはめったになく、あいかわらず言葉から始まり絵にたどり着く、をくりかえしている。

周期は幾分ゆったりしてきたが、そうでないと私には絵が見えないのだ。

絵画論や芸術論からは、かなり遠いところに棲んでいる人なのであった。



写真は、「ワコール銀座アートスペース」での2回めの個展のDM。

1991年【つむぎ姫】M40



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posted by 瓜南直子 at 10:51| Comment(0) | 絵とその周辺に棲むもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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