一浪の夏に、美大の受験勉強をゼロからスタートした私は、二浪と言ってもぺーぺーだった。
クラスはDからCへ上がったものの、デッサンでいい点を取ったことはあまりなく、
まだしっかりと自分のものになった実感をつかめていなかった。
立体(粘土による模刻)は得意なのに、二次元に置き換える感覚がうまく掴めなかった。
しかし、残りの時間はあまりに少ない。
しだいに、昼間部はもちろん夜間部にももぐりこんで描き、石膏像を買って、休みの日には家でも描くようになった。
私の持ってない石膏像を持ってる先輩の家にも行って、描かせてもらっていた。
家族のいる家では、やはりなかなかはかどらなかったけど、先輩の家で描いているときに、何か呼吸のようなものがわかった気がした。気がしただけなのだけど、それはすごく大事なことだったのだ。
大学に入ったら、金工をやると決めていたので私立は多摩美を受けることにした。
デザイン科のプロダクトに小さいながらも鍛金のコースがあり、設備を整えているところだと聞いたからだ。
しかし、多摩美は課題違反をして落ちてしまった。補欠も来なかった。残るは本命の芸大しかない。
落ちれば家事見習いの道が待っている。
一次受験の当日は雪だった。
一年中裸足とシャツ一枚に坊主頭で通していたかなり変わった友人も、その日ばかりは足袋を履いていた。
あいかわらずサンダル履きではあったけど。
雪の反射を浴びた、全光の新品のブルータス像が真っ白だったことをよく覚えている。
自分では落ちた、と思っていた一次、二次だったが、自家中毒になりながらもなんとか通った。
三次の学科と面接が終われば最終発表。当日、張り出された紙に受験番号があるのを確認した。
そして、上野の山を下りてから家に報告した。学校近辺の公衆電話が大行列だったので。
後で聞くと、あまり電話が遅いので、たぶん落ちたんだろうと思った父が、
ボソッと「もう一年やらせてやるか」と言ったと言う。音校に進んだ姉も3浪していた。
めちゃくちゃ保守的な家庭の父親としては娘ふたりを多浪させるのは、相当に心が重かっただろうと思う。
父は、高等小学校を出て町の工場に小僧さんとして入ったものの、
どうしても上の学校に行きたくて、単身上京し働きながら夜間中学に通った。
卒業を前に召集、そして北支で終戦を迎え、武装解除されて、貨車に詰め込まれてシベリアへ。
なんとか内地に帰ってきた時は30に手が届いていた。
時代と環境のせいで自分が満足な教育を受けられなかったという思いが、
私たちに好きな道を歩ませてくれたのだ。
受験が終わり、大学へ行く人、専門学校に進む人、もう一年浪人する人、違う道を選ぶ人。
3月20日からの10日間ほどは、後片付けや何やらで予備校に行っては、さまさまな去就を目の当たりにした。
一緒にデッサンしていた友達が、受験をやめて美容の道へ進んだり、デッサンの達人、神様と言われた多浪の先輩が、
前期はバイトして、後期からまた来ます、と言って帰って行った。
「結局、一年に一枚、いいデッサン描けばいいんだよなぁ」
ストーブのそばで「いこい」を吸いながら、ぼそっと言った。
コンクールでは常に上位、参考作品もたくさん残した先輩の言葉は重く痛かった。
普通大学と違って美大の受験は、残酷なほどの番狂わせが多い。それまでの努力や成績がそのまま反映されないことがよくある。単に受験という部分を切り取れば、の話ではあるけれど。
そして大学に行ってみると、皮肉なことに私の学年の平均年齢は異常に高かった。
トップは24浪、次は10浪。そこから9、7、6、5、4浪あたりもいっぱいいて、浪人時代の苦労話を聞くのもおもしろかった。
24浪、つまり42歳のT蔵さんと、現役18歳のM田くんは、親子にしか見えなかった。
美術をあきらめて郷里へ帰り、就職をする先輩の下宿で送別会をすることになった。
彼が私に気持ちをよせてくれてたのは知っていた。気持ちに答えられなかったけど。
地図を頼りに、南長崎の下宿に着いてみたら、まだ誰も来ていなかった。
みんな早く来ないかな、と思いながら、なんとなく居心地わるく座っていた私に先輩は言った。
「お願いがあるんだ」
ドキッとした。困る困る困る〜〜〜〜。こぶしを握って、身を固くして構えていた。
と、先輩が口を開いた。
「カボチャ、煮てくれないか」
へ?カボチャ?
カボチャなんか煮たことなんかないけど、そういうことなら、と近所の八百屋でカボチャを買ってきた。
しかし、味付けなんかわからない。
畳の上に新聞紙をしいて、先輩が切ってくれたカボチャを水と醤油と砂糖と酒で煮た。
できたのは、しゃぶしゃぶで味のしみてない、醤油辛いカボチャの煮物だった。
先輩はうつむいたまま、だまってカボチャを食べていた。
四畳半の下宿、畳の上に置いた炬燵の天板に酒やつまみをのせて、5人で飲んだ。
買ってきた串カツや海苔巻、みんな開けちまえ、と下宿にあった缶詰も並べた。
いつもちょっと羽振りのいいH瀬くんが、目白駅前の高級酒店田中屋でフランスのワインを買ってきた。
田中屋だよーフランス産だ、やっぱ お前金持ちだなー、とコーフンして開けようとして気づいた。
あ、ワイン抜きがない。
と、そこでポケットから「ワイン抜き」を出すH瀬くん。
さすがモダンボーイ。下宿ではベッドの生活で、毎朝コーヒーミルで豆を挽いて入れてるらしい。
こういうとこにぬかりはない。話が盛り上がってくると、語尾が「ぺ」になるけど。
ワインとかぼちゃのとりあわせは苦辛く、喉の奥できしんだ。
誰も受験の話にはふれなかった。
先輩が上京してきたころの想い出話などを主に聞いていた気がする。
めずらしく誰も泥酔することもなく、解散した。
先輩は地元の印刷所に就職して、高校の後輩と結婚したと後から人づてに聞いた。
H瀬くんは、その後、ベッドの下宿で酒盛りをして寝ている時に、自慢の口ヒゲの左半分を、仲間に剃られてしまい、
気づかずに そのままどばたにやってきて大笑いされてひどく落ち込んでいた。
きっとベッドとワインとコーヒーミルの罰だろう。
もう、30年は目白の駅を降りていない。
改札を出て右へ曲がるきれいな一団は、学習院と川村のみなさま。
左へ曲がる汚いのは、どばたの生徒。当時はそれが自虐的にうれしく自慢だった。
田中屋はまだあるのだろうか。
サヴァランや、ケーキの切れ端やフルーツのシロップ漬けがたっぷり入ったまかないケーキ?
がおいしかった洋菓子のボストンは。和やK、ひかりは。
そして椎名町の駅前の小さな本屋で、本の上で堂々と寝ていた巨大な猫もなつかしい。
晴れた日も夏の日もあったのに、記憶の中ではいつも秋か冬の景色だ。
そして、夢に出てくる目白の駅はいつも雨が降っている。
フォークブームが去り、「POPEYE」やサザンはまだ出てきていない、
若者文化のはざまのような時代の話である。(了)