2012年03月22日

コラム表紙を語る6. 【絵の周辺に棲むものー「音楽」】



文章を書く時以外は、ほぼ一日中、生活の中に音楽がある。

親の話では3歳の頃、勝手にオルガンを弾いていたらしい。
楽譜が読めるわけはないから、4歳上の姉が弾くのを聴いて当てずっぽうで弾いていたのだと思う。
この子バイエル半分弾いてる、とあわてた親がピアノを習わせたのが
音楽とのつきあいの始めということになる。

以来ずっとピアノは習っていたが、手が小さくてオクターブが届かない。
しかも楽譜のとおりに正確に弾く、ということが困難な性格なもので、勝手に曲を変えてしまう。
おまけにピアノの先生がたいへん熱心な方で、生徒はみな音大を目指す人ばかり、
という環境も私には難易度が高すぎた。



小学校卒業も近いある日、先生に

「あのね、僕のとこは月謝が高いんだ。君にはもったいないから、やめなさい」

と引導を渡された。



こうして晴れてピアノのお稽古から解放された私は、ロックに身をやつし、
バンドを結成してはヘタクソなキーボードを弾いて満足していた。



でも絵を描くようになってから、クラシックが復活した。
ロックやブルースでは、制作のバックはつとまらないのだ。



仕事初めは、バッハのゴールドベルグ変奏曲、もちろんグレン グールド。
よし始めよう、と背筋を伸ばしてくれる、ありがたい曲である。
スケッチや描写の時は、静かなバロックギターやリコーダー、チェロ曲、アリアなどを流している。

そして、佳境に入った仕事のバックを勤めますのは、
バッハの平均律や、バデュラ スコダのフォルテピアノ。
特に平均律は、「描け描け」と叱咤激励されているようで、
大バッハ先生には申し訳ないけど、私にとっては労働歌なのである。

個展前になると、さらにYMOや声明、グレゴリウス聖歌に軍歌まで加わって、
いやおうなく士気は鼓舞されてゆく。
どうやらバッハやYMO、声明にはお経のような効果があるようで、
アドレナリンやエンドルフィンがどうにかして、私の頭がトランス状態に近くなるらしい。


かくなる大音楽隊の力を借りて、なんとか作品は仕上がる。
そして仕事が終われば、ウィスキー片手にライ・クーダーやトム・ウェイツの音に酔い、
夜の闇に深く深く潜ってゆくのだ。  

                                【表現者】41号「コラム表紙を語る」より転載  


表現者41表紙s.jpg





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2012年02月17日

目白の青く暗き春(下)



一浪の夏に、美大の受験勉強をゼロからスタートした私は、二浪と言ってもぺーぺーだった。
クラスはDからCへ上がったものの、デッサンでいい点を取ったことはあまりなく、
まだしっかりと自分のものになった実感をつかめていなかった。
立体(粘土による模刻)は得意なのに、二次元に置き換える感覚がうまく掴めなかった。
しかし、残りの時間はあまりに少ない。

しだいに、昼間部はもちろん夜間部にももぐりこんで描き、石膏像を買って、休みの日には家でも描くようになった。
私の持ってない石膏像を持ってる先輩の家にも行って、描かせてもらっていた。
家族のいる家では、やはりなかなかはかどらなかったけど、先輩の家で描いているときに、何か呼吸のようなものがわかった気がした。気がしただけなのだけど、それはすごく大事なことだったのだ。

大学に入ったら、金工をやると決めていたので私立は多摩美を受けることにした。
デザイン科のプロダクトに小さいながらも鍛金のコースがあり、設備を整えているところだと聞いたからだ。

しかし、多摩美は課題違反をして落ちてしまった。補欠も来なかった。残るは本命の芸大しかない。
落ちれば家事見習いの道が待っている。




一次受験の当日は雪だった。
一年中裸足とシャツ一枚に坊主頭で通していたかなり変わった友人も、その日ばかりは足袋を履いていた。
あいかわらずサンダル履きではあったけど。

雪の反射を浴びた、全光の新品のブルータス像が真っ白だったことをよく覚えている。

自分では落ちた、と思っていた一次、二次だったが、自家中毒になりながらもなんとか通った。
三次の学科と面接が終われば最終発表。当日、張り出された紙に受験番号があるのを確認した。
そして、上野の山を下りてから家に報告した。学校近辺の公衆電話が大行列だったので。

後で聞くと、あまり電話が遅いので、たぶん落ちたんだろうと思った父が、
ボソッと「もう一年やらせてやるか」と言ったと言う。音校に進んだ姉も3浪していた。
めちゃくちゃ保守的な家庭の父親としては娘ふたりを多浪させるのは、相当に心が重かっただろうと思う。



父は、高等小学校を出て町の工場に小僧さんとして入ったものの、
どうしても上の学校に行きたくて、単身上京し働きながら夜間中学に通った。
卒業を前に召集、そして北支で終戦を迎え、武装解除されて、貨車に詰め込まれてシベリアへ。
なんとか内地に帰ってきた時は30に手が届いていた。
時代と環境のせいで自分が満足な教育を受けられなかったという思いが、
私たちに好きな道を歩ませてくれたのだ。




受験が終わり、大学へ行く人、専門学校に進む人、もう一年浪人する人、違う道を選ぶ人。
3月20日からの10日間ほどは、後片付けや何やらで予備校に行っては、さまさまな去就を目の当たりにした。

一緒にデッサンしていた友達が、受験をやめて美容の道へ進んだり、デッサンの達人、神様と言われた多浪の先輩が、
前期はバイトして、後期からまた来ます、と言って帰って行った。

「結局、一年に一枚、いいデッサン描けばいいんだよなぁ」

ストーブのそばで「いこい」を吸いながら、ぼそっと言った。
コンクールでは常に上位、参考作品もたくさん残した先輩の言葉は重く痛かった。

普通大学と違って美大の受験は、残酷なほどの番狂わせが多い。それまでの努力や成績がそのまま反映されないことがよくある。単に受験という部分を切り取れば、の話ではあるけれど。

そして大学に行ってみると、皮肉なことに私の学年の平均年齢は異常に高かった。
トップは24浪、次は10浪。そこから9、7、6、5、4浪あたりもいっぱいいて、浪人時代の苦労話を聞くのもおもしろかった。
24浪、つまり42歳のT蔵さんと、現役18歳のM田くんは、親子にしか見えなかった。





美術をあきらめて郷里へ帰り、就職をする先輩の下宿で送別会をすることになった。
彼が私に気持ちをよせてくれてたのは知っていた。気持ちに答えられなかったけど。

地図を頼りに、南長崎の下宿に着いてみたら、まだ誰も来ていなかった。
みんな早く来ないかな、と思いながら、なんとなく居心地わるく座っていた私に先輩は言った。


「お願いがあるんだ」


ドキッとした。困る困る困る〜〜〜〜。こぶしを握って、身を固くして構えていた。

と、先輩が口を開いた。


「カボチャ、煮てくれないか」



へ?カボチャ?
カボチャなんか煮たことなんかないけど、そういうことなら、と近所の八百屋でカボチャを買ってきた。
しかし、味付けなんかわからない。
畳の上に新聞紙をしいて、先輩が切ってくれたカボチャを水と醤油と砂糖と酒で煮た。
できたのは、しゃぶしゃぶで味のしみてない、醤油辛いカボチャの煮物だった。
先輩はうつむいたまま、だまってカボチャを食べていた。


四畳半の下宿、畳の上に置いた炬燵の天板に酒やつまみをのせて、5人で飲んだ。
買ってきた串カツや海苔巻、みんな開けちまえ、と下宿にあった缶詰も並べた。
いつもちょっと羽振りのいいH瀬くんが、目白駅前の高級酒店田中屋でフランスのワインを買ってきた。
田中屋だよーフランス産だ、やっぱ お前金持ちだなー、とコーフンして開けようとして気づいた。
あ、ワイン抜きがない。
と、そこでポケットから「ワイン抜き」を出すH瀬くん。
さすがモダンボーイ。下宿ではベッドの生活で、毎朝コーヒーミルで豆を挽いて入れてるらしい。
こういうとこにぬかりはない。話が盛り上がってくると、語尾が「ぺ」になるけど。

ワインとかぼちゃのとりあわせは苦辛く、喉の奥できしんだ。
誰も受験の話にはふれなかった。
先輩が上京してきたころの想い出話などを主に聞いていた気がする。
めずらしく誰も泥酔することもなく、解散した。


先輩は地元の印刷所に就職して、高校の後輩と結婚したと後から人づてに聞いた。


H瀬くんは、その後、ベッドの下宿で酒盛りをして寝ている時に、自慢の口ヒゲの左半分を、仲間に剃られてしまい、
気づかずに そのままどばたにやってきて大笑いされてひどく落ち込んでいた。
きっとベッドとワインとコーヒーミルの罰だろう。




もう、30年は目白の駅を降りていない。
改札を出て右へ曲がるきれいな一団は、学習院と川村のみなさま。
左へ曲がる汚いのは、どばたの生徒。当時はそれが自虐的にうれしく自慢だった。


田中屋はまだあるのだろうか。
サヴァランや、ケーキの切れ端やフルーツのシロップ漬けがたっぷり入ったまかないケーキ?
がおいしかった洋菓子のボストンは。和やK、ひかりは。
そして椎名町の駅前の小さな本屋で、本の上で堂々と寝ていた巨大な猫もなつかしい。

晴れた日も夏の日もあったのに、記憶の中ではいつも秋か冬の景色だ。



そして、夢に出てくる目白の駅はいつも雨が降っている。





フォークブームが去り、「POPEYE」やサザンはまだ出てきていない、
若者文化のはざまのような時代の話である。(了)










posted by 瓜南直子 at 21:28| Comment(3) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月14日

目白の青く暗き春(中)



目白駅から、「すいどーばた美術学院」通称「どばた」に行く途中に「徳川黎明会」があった。
ここは瓦解後、新政府から徳川家に与えられた土地なのだろう。
りっぱな石の門があり、門から続く砂利道の両側に裕福な外人の家がたくさんあった。
映画「ゴッドファーザー」に出てくるロングアイランド(ロケ地はスタテン島)の家のような感じ。
周囲の住宅の中で、あきらかに異空間だったが、
そこの前を毎日行き来する汚い画学生たちはもっと異様だっただろう。

「徳川黎明会」には、大きなイチョウの木が何本もあって、
秋になると、私はそこのガブリエル君7歳と銀杏を集めて一袋百円で売った。
ガブリエル君が持ってきた木箱に乗せて。


でも、ガブリエル君はお昼になると、ママに呼ばれて家に帰ってしまう。
仕方なく私は木箱の前に一人で座っていた。
やがて出勤してきた講師にみつかり、「なにやってんだお前。今日は講評だぞ」と叱られる。
でも、「待っててー」というガブリエル君とかわした堅い約束がある。
「早くアトリエに行きなさい」とうながす講師の前で、少女漫画化した私は、
ガブリエル君が帰ってくるまではー、と身をよじるのだった。



いつもはお弁当を作って持って行ってたけど、ときどき近所の喫茶店兼スナックで
ピラフとかカレー、スパゲティー、定食などを食べた。
時には池袋まで歩いて、立教の学食まで百円のカツ丼を食べに行くこともあった。
池袋に行けば文芸座、文芸地下、と入ったら最後、数時間は出てこられない映画館があり、
出てきてお腹がすけば、新しくなったばかりの西武の屋上で120円のうどんを食べた。
ここのうどんは当時としてはめずらしく関西風で、お気に入りだったのだ。

どっぷりロックに沈みたい時は、渋谷の「BYG」や、吉祥寺「be−bop」通称バッピに行った。
そしてライブなら西荻窪「ロフト」。
新宿も「海賊」などいろいろ行った気がするけど、忘れてしまった。
一浪のころはまだバンドをやっていたので、スタジオで練習した帰りにメンバーと飲みに行ったりしていたけれど、
私が受験にどっぷりになってからは疎遠になってしまっていた。

ふだんはたいてい近所のスナック「ひかり」「K」「和」でサントリーホワイトをボトルで頼んでみんなで飲んだ。
その頃は、まずビールから、なんていうことはなくいきなりウィスキー。
酔っぱらうためには、ビールは高かったんである。




俺なんかさ、結局さ…。
お前のデッサンは似顔絵なんだよー!足りないのは重さだよ、マッスだ存在感だ!
うううー。同じことをN中先生にも言われたよ…
おれ、やっぱダメだわ、結構勉強できたし、今から普通の大学受けようかな。
おまえ、それでいいのか?ええー?いいのかぁぁぁーっ!
…いっぺんコンクールで一位取ったからってCクラスから藝大に行けるわけないし。
Y崎さん、この間の講評で前と全然違うこと言ってたなー… 

やっぱりピンク フロイドだよなー、うん。
NSPってなんだよ、ごめんごめんってかんべんしてくれよー。
…おれ、やっぱり中核に戻るわ。

ユーミンて言うなよ気持ち悪いー。
ああーーっ酒 こぼしたー、もったいねぇー。





吐き出された言葉が、会話にもならずにどろどろにうごめいて宙に浮かんでいる。
そして、どこかで女の子がシクシク泣いてる。

サントリーホワイトが空いたら、そこに煙草のケムリを吹き込んで充満して、シャカシャカ振る。
そして、マッチをすって投入。炎がぼわっと瓶の中で広がるのを見届ける儀式。
そして、新たにもう1本。

「あんたたちー。受験なんでしょー?こんなことしてていいのぉー?うちはありがたいけどねぇ」
とママさんが、お雑煮を運びながら言う。「K」のお雑煮はおいしかった。
焼き餅に出汁がはってあって、青菜と椎茸が入った玉子とじ。そして海苔が一枚。
当時、お雑煮はお正月のものと思っていたから、この小腹しのぎなお雑煮がすっかり気に入って家でもよく作った。
ちょうどサトウの切り餅などが出回った頃なのかもしれない。

悪酔いの王者はコークハイ。そして、より最悪なのがウィスキーをオレンジジュースでを割るもの。
ジュースみたいー とか言ってのんでるうちに胃が沸騰してくる。
特に濃いジュースで割るのがいけない。当時ならサントリー オレンジ50、今でいえばトロピカーナ系だ。

そして誰かが潰れていく。それを、少しまともなのがかついでゆく。
シクシクの女子も誰かが面倒みる。この場合は、翌日から一緒にお弁当食べる仲になってたりすることが多かった。

あの頃行ってた店には、本当に迷惑かけました。
自分たちのほかは、普通のサラリーマンばかりなのに(マルキン自転車の人が多かった)
ハードロックのLP持ち込んで勝手にかける、歌う踊る暴れる壊すケンカする泣く吐く…。



ある日、飲んだ帰りに目白通りを歩いていると、トラックが白菜をゴロゴロ落として行った。
うほほ、しばらくこれで食えると下宿住まいの子は鞄につめた。
そして、この幸せをご近所のみなさんにもわけてあげよう、
と、そのへんの民家のポストに白菜を一枚ずつ配って歩いた。

「白菜の郵便屋さんだよー」

新聞の束よろしく白菜を抱えてホッホッと掛け声かけて足音を刻んでいるのは、
あと4時間もしたら、新聞配達に行く子だ。白菜を抱えたまま、地べたで寝てしまったのもいる。
おれのだよー! これ、お母さんに、お母さんに!と白菜を取り合ってる男子と女子。
目白通りには、まだまだ白菜がいっぱい転がっている。
時々、車のライトに照らされ、白菜を潰してゆく音が聞こえた。



深夜の目白通りを、酔っぱらってふらふら歩きながら、
明日をも見えない受験生たちが白菜を配って歩いた。

景色は今も、記憶の底でかげろうのように泣いている。






posted by 瓜南直子 at 14:32| Comment(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月13日

目白の青く暗き春(上)



大雪の朝。

いつもより1時間以上早く家を出て、ダイヤの乱れた中央線を避け、バスと西武線を使って椎名町に着いた。
今日は誰もまだ来てないだろうな、まず暖房入れなくちゃと思いながら、八角形のアトリエの鉄の扉を引いた。

と、すでに数人がイーゼルに座ってデッサンしていた。
見れば、ふだん遅刻や早退、サボリの多いヤツばかり。
まったく、こんな時に限って、と思ったけど、それは私も同じだった。



1975年。

普通大学で歴史を学ぶつもりだった一浪の夏、私は突如舵を切り替えた。
まったく美術の経験もないままに、美大を目指すという暴挙に出たのだ。

一浪めは落ちてあたりまえだけど、二浪めの今年は、
落ちたら横浜の知り合いの家に家事見習いに行く話になっていた。
高校の頃からはみだし者で、本と音楽とありとあらゆる不良の数々をしてきた私には、
後がないことを解らせないといけない、という親心だったのだろう。




私の通っていた美大予備校「すいどーばた美術学院」は、椎名町と目白の中間、西武線の線路沿いにあった。
ふだんは西荻窪の自宅から中央線、山手線で目白駅から歩く。

目白の住宅街の中をズダズダのオーバーオールや米軍払下げのコートを着て、歩く。
手には、木炭や鉛筆の入った鉄の工具箱。

席取りをして、水張りをしたパネルを置いたら安心して、すぐに緊張をほどいてしまうタチの私は、
ちょっと休憩、とぶらーっと散歩に出る。

思えば、私の人生の中で、浪人時代ほどよく歩いた時代はない。
下落合の御留山公園から池袋や巣鴨、大塚、護国寺、鬼子母神、南長崎から江古田方面・・・。

いちおう、戻って課題をするつもりであるので、電車に乗っての遠出はしない。
でも、何駅分も歩いているうちに、今日はもう帰れないな、の甘い後ろめたさと、
こんなことしてて受験どうするんだろう、の不安が、この時代の散歩をせつないものにさせた。

ひとりで歩く時もあったし、当時つきあってた男と歩くこともあった。

夕暮れの目白駅の階段の上の窓から見た夕陽のせつなさは今も忘れない。



どもまでもどこまでも歩いた。
目白通りを、車がびゅんびゅん飛ばす環六を、落ち葉や石を蹴りながら歩いた。





幼稚園時代、新大塚に住んでいたので、そのあたりまで足をのばしてみたことがある。

昭和30年代。
出版社が近所に多かったからなのか、印刷所の近くに出版社が越してきたのかわからないけど、
大塚坂下町には小さな印刷所がたくさんあった。
それこそ、土間に印刷機が一台あるだけの家内工業が軒を並べていたのである。
「Allways−三丁目の夕日」の鈴木オートみたいな感じ。しかも規模はもっと小さい。
そこのうちに遊びに行くと、ガシャンガシャンと働く印刷機の横を通り、
奥のちゃぶ台のある部屋へ通される。
そして、おばさんがお金をくれて一緒に外に遊びに行くのだ。
こんな楽しい思いをしたことはなかったので、家に帰ってコーフンして、
うちでもあんなことしたいと言った。
しかし、どうやら子供はお金を持ってはイケナイ、
という我が家の方針とはかなりかけはなれた遊び方であったらしく、
二度とその家に遊びに行かせてはもらえなかった。


通っていた幼稚園は護国寺の中にあった。
幼稚園当時、往来を走っていた都電はなかったけれど、護国寺も幼稚園も変わっていなかった。
訪ねた時は園児はみな帰ったあとだったが、断って中を見せてもらった。


広いと思ってた「お庭」はこんなに狭かったのか。こんなところで運動会をしてたんだ。
こんなちっちゃい椅子に座っていたのか、としんみりしてると、

「どなた?」

と妙齢のご婦人に声をかけられた。
あ、昔の卒園者です、というと彼女は

「なおこちゃん?」と言った。



なんでわかるんだーっ! 伊藤先生。

小学校に上がると同時に東京を離れ、それ以来だというのに、覚えていてくれるなんて。
しかも名前まで…。先生というのは、そういうものなのかと胸が熱くなった。
美大を目指して浪人中であることを伝えると、
伊藤先生は、当時の私のエピソードを教えてくれて、
「あなたならきっとできるわよ」と、にこやかに力強い笑顔を下さった。


こうして、伊藤先生に太鼓判を押されたなおこちゃんだったが、
今日も散歩で一日が終わり、また課題は未提出。
夜は夜間部に潜り込んで描くと言って、またカルトンだけ置いて、近所のスナックで飲み始めてる。




いったい、どうするんだ受験。










posted by 瓜南直子 at 22:03| Comment(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月29日

コラム表紙を語る5. 【絵の周辺に棲むものー「岩絵具」】


              
文筆家の人に言われたことがある。


「いいですよね、絵描きさんは。仕事始める前にいろいろやることがあって。
こちらは、いきなり原稿用紙ですから。なんか前置きがないかな、
と思ってエンピツ削ったりするんですけどね」


そう、私にはその日の仕事に入る際に、いくつかの作業がある。


まず音楽をかけて描きかけの絵をながめ、本日の式次第をメモする。
つまり、仕事の順序を箇条書きにしておくのだ。
そして膠を作り、筆や絵具を選ぶ。

これが導入部となって、次第に気持ちが絵に入ってゆく。
漫画家は、枠線を引くこと、書家にとっては、墨をすることが導入部になるらしい。



私が使っている絵具は、日本画で使う「岩絵具」。
チューブに入っている油絵具などと違い、鉱物や岩を砕いたものや精製した土で、
これを膠で溶いて画面に定着させる。同じ岩でも粒子の粗さによって、色味も明度も彩度も違う。
粒子の粗い天然岩絵具は、瓶に入れてあるだけで、うっとりするほど美しい。

しかし私の場合うっとりしていたら、ただ眺めているだけになってしまうので、
そのままでなく、絵具を焼いたり、何色か混ぜるなどして、好みの色を作っている。



色見本となるのは、仏画や障壁画の画集である。
または散歩の途中で拾った石や木片、苔、日に灼けた障子紙だったりする。
先日も、二条城の釘隠しや柱に施された、銅の装飾の緑青などを撮影してきた。
拡大プリントしておくと、色やマチエール(絵肌)の参考になるのだ。

出来た絵具は瓶に入れて、色の名前をつけてシールに書いて貼る。
何と何を混ぜたかも忘れずに書いておく。



色の名前をつけるのがまた楽しい。
「渋紙色」「檜皮色」「錆青磁」「媚茶」「梅鼠」などは、日本の伝統色からとった。
天然岩絵具を焼いて、色に深みを出したものは「焼白緑」「焼緑青」「焼岱赭」など。
いつのまにこんなに増えたのか、数えてみたら五百本ほどの瓶があることに、自分でも驚いている。



と、絵を描くつもりで絵具を作るのに夢中になり、
気がつけば何時間もたっていて、もういいや今日はおしまい、
なんてこともたまに、いや結構あります。

                          

【表現者】40号「コラム表紙を語る」より転載  




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