2012年02月24日

【表現者】41号発売中


富岡 芦澤.jpg

                                            芦澤さん(左)と富岡さん。




おとといの水曜日の夕刻、鎌倉駅で富岡幸一郎さんと芦澤泰偉さんと待ち合わせて、駅裏の「畔屋」へ行った。



2年間12号続けた【表現者】の表紙を、次号から黒鉄ヒロシさんにバトンタッチすることになったので、
その総括を兼ねて、ちょっと飲みましょうという話になったのだ。


富岡さんは鎌倉、芦澤さんは逗子にお住まい。
いつも東京で会合などの帰りは3人で横須賀線車中で飲みながら帰ってくる。
そのまま鎌倉で呑み直すこともある。


1月に、西部邁さんが贈られた壺を見に富岡邸へ伺い、
そのまま「段葛 こ寿々」で蕎麦会をして以来である。


芦澤さんとは、昨年10月22日、29日に放映された
東京MXテレビ「西部邁ゼミナール」でもご一緒させていただいた。
http://www.mxtv.co.jp/nishibe/archive.php?show_date=20111022

http://www.mxtv.co.jp/nishibe/archive.php?show_date=20111029



表紙原画を私が担当した2年間、オピニオン誌としては、かなり異端な表紙だったと思うけど、
何度かAmazonで1位を取ったことがあるそうで、【表現者】の宣伝、売上に貢献できてよかった。
私の作品に、タイトルや見出しなどたくさんの文字を乗せるという難しいデザインを、
上品なものに仕上げて下さった芦澤泰偉さんの力があってこそだけれど、
実際、売上げはかなり伸びているという。

「和食の散歩みち」「表紙絵を語る」と続けたコラムの方は次号からも続けて欲しいということで、
テーマやボリュームについて打ち合わせをした。
他のページの新しい企画なども話の中から生まれてきた。



そして話は「観〇光」へ。

鎌倉独自の文化といえば、近代文学ははずせない。
展示以外に、朗読会や講演などさまざまな企画とリンクさせる形で、
鎌倉の地で、日本文化を見つめ直す土壌を作りたい。

折しも、富岡さんが鎌倉文学館の館長に就任することが正式に決まった。



何か、風が吹いてきているような気がする。



表現者41表紙s.jpg





表現者41号
http://www.amazon.co.jp/%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E8%80%85-2012%E5%B9%B4-03%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E9%9B%91%E8%AA%8C/dp/B00746R5RY/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1330068190&sr=1-1





posted by 瓜南直子 at 16:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月20日

梅あそび



毎年、京都の「秋田家」さんから梅干が送ってくる。
ここは高橋春男さん、栞さんのご夫婦が営む小さな秋田料理の店。
春男さんは秋田角館、栞さんは宮崎のご出身である。春男さんの秋田料理もさることながら、
栞さんが毎年作る梅干がまた絶品。青谷の立派な梅で漬けて送って下さる。
時には、荷物の中に京都の野菜や、春男さんお手製の佃煮、
栞さんのお兄さんが作った干しいたけなどが入っていて、田舎から慰問袋が届いたようでうれしい。

梅干しは、おむすび、お茶漬はもちろん、和え衣や調味料として使うのがまた楽しい。





百合根 梅肉S.jpg



〇ゆり根の梅和え


ゆり根は身を欠いて、水にさらし、黒くなっているところを包丁で落とします。
大きく厚みのあるものは斜め半分に切り、湯気の立った蒸し器で蒸します。
途中で様子を見て、ほどほどの厚さのものに火が通っていたら、器に盛ります。
叩いた梅肉を天盛りにして、付けながらいただきます。
以前は、冷めたものを和えてたけど、蒸したての方が香りも甘みも際立って、
梅干も生きてくるとわかりました。




ホーロー.jpg



蒸しものは、ちょっとしたものなら、高さのある蓋付きの鍋に、径の合うザルを入れて使います。
私はドイツの病院用の、ホーローの小さな半寸胴を愛用しています。
この鍋は、他にはゆで卵やご飯を蒸す時、あと「ツユク」を作る時に活躍しています。






タイラギS.jpg




〇平貝梅和え

平貝は大きな貝殻のまんなかに、でんっと貝柱がある割に、ほかの部分がけそっとしていて、
いったいどういう暮らしをしているのか、家庭訪問したくなるような貝ですが、貝柱はおいしい。
私としては帆立より数段おいしいと思っています。
貝のみなさんがそうであるように、平貝もちょっと火を通すと甘みが増しておいしくなる。
で、まわりのヒモを外して一口大のサイコロに切った貝柱をさっと酒煎りします。
鍋に少しの酒を沸かして貝を入れ、お箸で少しころがしてザルにあけます。
下に皿を受けて、そのまま冷凍庫に入れて急激に冷まします。
(ここで、よく忘れて凍らしてしまうことも)
貝柱にほんのすこしの醤油をからめ、煎り酒少々でのばした梅肉で和えます。






小松菜梅ツナ.jpg

                                               



〇小松菜梅ツナ

これはとてもおいしい和えものです。
茹でて冷まし切った小松菜を、だしに醤油少々入れた浸し地にしばらく浸しておきます。
これを軽く水切りして、叩いた梅肉とツナ缶を混ぜたもので和えます。
和えすぎると見映えが悪くなるのでサックリと。
ツナ缶はフレークでなく、塊のものを使って下さい。
水煮でなく、オイル漬けを。



梅ツナは、そのまま小皿に盛れば酒の肴に。
ツナをなまり節に替えると、ぐっと深い味わいに。
また、スープパスタにも使えます。ハーブは繊切りの青紫蘇。
日本人好みのさわやかなスープパスタです。





煎り酒.jpg



〇煎り酒

江戸時代に醤油が発明されるまで、刺身などの付け味として用いられていた調味料です。
最近は「煎り酒」というものを売っているようですが、見ると出汁のきいた塩味の調味料みたいですね。
あれはあれで、塩ダレとして作ってみたいと思っています。

私が作る煎り酒は、梅干と酒だけ。
梅干の古漬につま楊枝で点々と穴を開けて、お酒に入れて鍋で煮て、
弱火でコトコト半量近くになるまで煮詰めます。
これを容器に入れて保存します。夏場は冷蔵庫へ。冬なら常温でも大丈夫です。

和えもの、おつゆもの、魚や野菜をさっと炊く時の隠し味に使います。
ひかえめだけど、味にふくらみと奥行きが出るんです。
何よりわかりやすいのは、白身魚のお刺身の付け醤油。
これを煎り酒で割ると醤油が和らぎ、やさしい味わいになって、魚の味が映えます。
あと、しゃぶしゃぶのタレにも使います。

かえし(醤油とみりんを煮つめて寝かせたもの)や煎り酒などの、自家製調味料があると、
マイ味付け感が増す、というか、ちょっとした違いに敏感になったりします。
そのぶん、口うるさい感も増してきて、ヤナやつになってゆきますが…。



あっ。あと、ポン酢だ、ポン酢を何とかしなくっちゃ。
いつも市販のものに、すだちを足したりのナンチャッテぽん酢ですましてるけど、
新わかめのしゃぶしゃぶには、マイぽん酢がほしいところだなー。


ぽん酢作りの達人2名から、それぞれに配合を伺っておるのに、
あわよくばもらおうとする、さもしい魂胆でいるので、いまだに作ってないわけです。




※「ツユク」についてはコチラ→ http://kanannaoko.seesaa.net/article/164860523.html






posted by 瓜南直子 at 16:56| Comment(1) | いつもなおかず | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「観〇光」鎌倉展にむけて…

  

選佛場.jpg

                                                              円覚寺 選佛場



17日の金曜日は「観〇光」のメンバー、中堀慎治、伴清一郎の二人と、北鎌倉 円覚寺に行ってきた。

去年の「観〇光」の前から、今後 京都だけでなく鎌倉でもぜひやりたいという話になってきていたのだ。




龍隠庵b.jpg

                                        朝比奈恵温さん 円覚寺塔頭 龍隠庵にて




今年に入ってまず、浄智寺住職にして、円覚寺 教学部長である朝比奈恵温さんに、お話を伺った。
ぜひ実現の方向に持っていきましょう、と頼もしいご返事をいただき、
さらに、鎌倉の若手住職の方々をご紹介いただいた。
覚園寺 仲田順昌さん、淨光明寺 大三輪龍哉さん、極楽寺 田中密敬さん、明王院 仲田晶弘さんの
みなさんと会食して、お話をさせていただいた。



住職ズ.jpg

                                  左から、大三輪さん、朝比奈さん、明王院 仲田さん、田中さん





それを踏まえて、昨年までの実行委員長であり「観〇光」の精神的支柱である中堀さん共々、
具体的なお願いに上がったのだ。

会期は来年の春、京都展 3月、鎌倉展 4月、という展開になる。
関西と関東を連動させてゆくことで、「観〇光」はより大きな存在となってゆくだろう。

私たちは、「観〇光」の背骨を屈強なものに鍛え、単なるイベントでなく、
日本の文化を次世代に繋ぐために畑を耕し、種を蒔く運動にしたいと願っている。
出店作家が自らの作品展示を通して、担うものは大きい。

そしてさらに、この運動から波状的にさまざまなムーブメントが起こることを期待している。



鎌倉ならカナンだろう、ということで、「観〇光」鎌倉展への踏み分け道づくりを任された。
実に非力ながら、できることをしていきたいと思っている。

京都とは全く違った、鎌倉らしい展開を作ってゆきたい。



地元鎌倉のみなさま、どうぞよろしくお願いします。









龍隠庵 a.jpg


                              





ラベル:観〇光 鎌倉
posted by 瓜南直子 at 16:05| Comment(0) | 鎌倉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月18日

「さより、鯛、ささみも干しました」



さより焼き.jpg




かれいを干してからというもの、すっかり干物の習慣が身にしまった。
魚を見る時、干しておいしいか魚どうかを第一のチェックポイントとして選んでいる。

逗子駅前の「魚佐次」は、地元のいきの良い魚が安く手に入る。
逗子に行くたびに立ち寄るのだが、先日は鯛とさよりを選んだ。
どちらも大好きな魚だし、三浦半島で採れた身近なもの。
そして、干物にしたら楽しいだろうなー的ポイントが高かったのだ。

さよりは、その半透明の美しい体の割に、お腹の皮が黒くて、ちょっと臭みがある。
江戸時代の武士が「腹黒いからイヤでござる」と嫌ったというのは、
「腹黒い」に掛けているのもあっただろうけど、お腹の皮の臭みが嫌われたのだろう。
ここをきれいに取るかどうかで、味は変わってくる。

まず包丁で皮をしごいて ぬめりを取り、お腹を開いて掃除をする。
包丁の先で背骨のわきの血合いを切って洗い、腹の内皮を歯ブラシで取る。

さより★.jpg




鯛は、ウロコを引いてから、背開きにしてみた。頭は出刃で割った。

どちらも全体に細かい塩を少なめに振り、30分ほど置いて、出てきた水と余分な塩をふいた。

串をして、干物箱に設置して、庭の木の枝にぶらさげた。

鯛★.jpg




さよりは丸一日でいい感じで乾いたけど、鯛がなかなか干し上がらない。
なので仕上げに、日当たりのよいところで、開いた側を天に向けて3時間ほど干した。

やっぱり、天日に干すとグンッと旨みを増すのだと実感した。
これからは、干物の仕上げはお日さまにお任せすることに決めた。


鯛干し焼き.jpg


さらに、何か干したくってしょうがない私は、勢いあまって、鶏のささみを干した。

すこし前に、高松天満屋美術部の青野千鶴さんが送って下さった鰆の味噌漬の味噌床が残っていた。
市販のものでなく、お料理屋さんの手作りのものらしく、粒の白味噌の香りが素晴らしい。
漬かっていた鰆をいただいてから、鰆とまながつおを漬けていただいた。

ここに、ささみを漬けるつもりなのである。


ささみ干.jpg




ささみの味噌漬は、何度か作ったけど、下漬けの塩が効き過ぎて、塩辛くなりがちだった。
かと言って、そのまま漬けると味噌が傷みやすい。
で、干したらどうたろうと思いついたのである。
水分が抜けて、表面がしっかり乾くくらいまで干して、味噌床へ。
丸一日ほど漬けて、ホイル焼きにした。
白味噌なので柚子を添えて。


次は、少し赤味噌を足してみようと思う。

胸肉なんかも干して漬けてみよう。

干しいたけがおいしいのだから、干えのき茸がおいしくないわけはないってことで、
えのき茸も干している。

翻訳家の村井理子さんは、筑前煮の根野菜も切ってから寒風にちょっと干すそうだ。
またまた、ムラムラさせてくれるじゃないのーっ。





posted by 瓜南直子 at 21:55| Comment(0) | いつもなおかず | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月17日

目白の青く暗き春(下)



一浪の夏に、美大の受験勉強をゼロからスタートした私は、二浪と言ってもぺーぺーだった。
クラスはDからCへ上がったものの、デッサンでいい点を取ったことはあまりなく、
まだしっかりと自分のものになった実感をつかめていなかった。
立体(粘土による模刻)は得意なのに、二次元に置き換える感覚がうまく掴めなかった。
しかし、残りの時間はあまりに少ない。

しだいに、昼間部はもちろん夜間部にももぐりこんで描き、石膏像を買って、休みの日には家でも描くようになった。
私の持ってない石膏像を持ってる先輩の家にも行って、描かせてもらっていた。
家族のいる家では、やはりなかなかはかどらなかったけど、先輩の家で描いているときに、何か呼吸のようなものがわかった気がした。気がしただけなのだけど、それはすごく大事なことだったのだ。

大学に入ったら、金工をやると決めていたので私立は多摩美を受けることにした。
デザイン科のプロダクトに小さいながらも鍛金のコースがあり、設備を整えているところだと聞いたからだ。

しかし、多摩美は課題違反をして落ちてしまった。補欠も来なかった。残るは本命の芸大しかない。
落ちれば家事見習いの道が待っている。




一次受験の当日は雪だった。
一年中裸足とシャツ一枚に坊主頭で通していたかなり変わった友人も、その日ばかりは足袋を履いていた。
あいかわらずサンダル履きではあったけど。

雪の反射を浴びた、全光の新品のブルータス像が真っ白だったことをよく覚えている。

自分では落ちた、と思っていた一次、二次だったが、自家中毒になりながらもなんとか通った。
三次の学科と面接が終われば最終発表。当日、張り出された紙に受験番号があるのを確認した。
そして、上野の山を下りてから家に報告した。学校近辺の公衆電話が大行列だったので。

後で聞くと、あまり電話が遅いので、たぶん落ちたんだろうと思った父が、
ボソッと「もう一年やらせてやるか」と言ったと言う。音校に進んだ姉も3浪していた。
めちゃくちゃ保守的な家庭の父親としては娘ふたりを多浪させるのは、相当に心が重かっただろうと思う。



父は、高等小学校を出て町の工場に小僧さんとして入ったものの、
どうしても上の学校に行きたくて、単身上京し働きながら夜間中学に通った。
卒業を前に召集、そして北支で終戦を迎え、武装解除されて、貨車に詰め込まれてシベリアへ。
なんとか内地に帰ってきた時は30に手が届いていた。
時代と環境のせいで自分が満足な教育を受けられなかったという思いが、
私たちに好きな道を歩ませてくれたのだ。




受験が終わり、大学へ行く人、専門学校に進む人、もう一年浪人する人、違う道を選ぶ人。
3月20日からの10日間ほどは、後片付けや何やらで予備校に行っては、さまさまな去就を目の当たりにした。

一緒にデッサンしていた友達が、受験をやめて美容の道へ進んだり、デッサンの達人、神様と言われた多浪の先輩が、
前期はバイトして、後期からまた来ます、と言って帰って行った。

「結局、一年に一枚、いいデッサン描けばいいんだよなぁ」

ストーブのそばで「いこい」を吸いながら、ぼそっと言った。
コンクールでは常に上位、参考作品もたくさん残した先輩の言葉は重く痛かった。

普通大学と違って美大の受験は、残酷なほどの番狂わせが多い。それまでの努力や成績がそのまま反映されないことがよくある。単に受験という部分を切り取れば、の話ではあるけれど。

そして大学に行ってみると、皮肉なことに私の学年の平均年齢は異常に高かった。
トップは24浪、次は10浪。そこから9、7、6、5、4浪あたりもいっぱいいて、浪人時代の苦労話を聞くのもおもしろかった。
24浪、つまり42歳のT蔵さんと、現役18歳のM田くんは、親子にしか見えなかった。





美術をあきらめて郷里へ帰り、就職をする先輩の下宿で送別会をすることになった。
彼が私に気持ちをよせてくれてたのは知っていた。気持ちに答えられなかったけど。

地図を頼りに、南長崎の下宿に着いてみたら、まだ誰も来ていなかった。
みんな早く来ないかな、と思いながら、なんとなく居心地わるく座っていた私に先輩は言った。


「お願いがあるんだ」


ドキッとした。困る困る困る〜〜〜〜。こぶしを握って、身を固くして構えていた。

と、先輩が口を開いた。


「カボチャ、煮てくれないか」



へ?カボチャ?
カボチャなんか煮たことなんかないけど、そういうことなら、と近所の八百屋でカボチャを買ってきた。
しかし、味付けなんかわからない。
畳の上に新聞紙をしいて、先輩が切ってくれたカボチャを水と醤油と砂糖と酒で煮た。
できたのは、しゃぶしゃぶで味のしみてない、醤油辛いカボチャの煮物だった。
先輩はうつむいたまま、だまってカボチャを食べていた。


四畳半の下宿、畳の上に置いた炬燵の天板に酒やつまみをのせて、5人で飲んだ。
買ってきた串カツや海苔巻、みんな開けちまえ、と下宿にあった缶詰も並べた。
いつもちょっと羽振りのいいH瀬くんが、目白駅前の高級酒店田中屋でフランスのワインを買ってきた。
田中屋だよーフランス産だ、やっぱ お前金持ちだなー、とコーフンして開けようとして気づいた。
あ、ワイン抜きがない。
と、そこでポケットから「ワイン抜き」を出すH瀬くん。
さすがモダンボーイ。下宿ではベッドの生活で、毎朝コーヒーミルで豆を挽いて入れてるらしい。
こういうとこにぬかりはない。話が盛り上がってくると、語尾が「ぺ」になるけど。

ワインとかぼちゃのとりあわせは苦辛く、喉の奥できしんだ。
誰も受験の話にはふれなかった。
先輩が上京してきたころの想い出話などを主に聞いていた気がする。
めずらしく誰も泥酔することもなく、解散した。


先輩は地元の印刷所に就職して、高校の後輩と結婚したと後から人づてに聞いた。


H瀬くんは、その後、ベッドの下宿で酒盛りをして寝ている時に、自慢の口ヒゲの左半分を、仲間に剃られてしまい、
気づかずに そのままどばたにやってきて大笑いされてひどく落ち込んでいた。
きっとベッドとワインとコーヒーミルの罰だろう。




もう、30年は目白の駅を降りていない。
改札を出て右へ曲がるきれいな一団は、学習院と川村のみなさま。
左へ曲がる汚いのは、どばたの生徒。当時はそれが自虐的にうれしく自慢だった。


田中屋はまだあるのだろうか。
サヴァランや、ケーキの切れ端やフルーツのシロップ漬けがたっぷり入ったまかないケーキ?
がおいしかった洋菓子のボストンは。和やK、ひかりは。
そして椎名町の駅前の小さな本屋で、本の上で堂々と寝ていた巨大な猫もなつかしい。

晴れた日も夏の日もあったのに、記憶の中ではいつも秋か冬の景色だ。



そして、夢に出てくる目白の駅はいつも雨が降っている。





フォークブームが去り、「POPEYE」やサザンはまだ出てきていない、
若者文化のはざまのような時代の話である。(了)










posted by 瓜南直子 at 21:28| Comment(3) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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